【SS】American Dream(そうだ、避暑地に行こう)
201X年、XX月XX日。
スタジアムは、異様な熱気に包まれていた。
スコアボード上段、敵チームに並ぶ0は、ここまで8つ。
しかも、これはただの0じゃない。
そのことは、おそらく俺だけじゃなく、皆、6回か7回あたりから気付いていたはずだ。
今日の先発、杉野吾郎。
ここまで打者26人に対し、三振7、四死球2。
……被安打0。
スコアシートを持つ手が震える。
あとここに、ヒットを許さぬまま3つのアウトを刻み込めば、日米でのノーヒットノーラン達成という偉業を、吾郎は成し遂げることになる。
正直、日本でのあのノー・ノーは、思い出すと今でもちょっとムカッとする。
まぁ尤もあれは、錦鯉のあまりのヘッポコ貧打っぷりも否めないところだったのだが。
けれど、今日は違う。
相手のチーム打率は2割後半、クリーンナップ3人のうち2人が、打率十傑に名を連ねている。現在首位争い真っ最中の強豪だ。
観客達だけではない。監督も、コーチも、チームメイト達もざわめいている。
けれど9回のマウンドを前にした吾郎の気迫に、俺を含め誰一人、話しかけることなどできなかった。
そして8回の裏、3つ目のアウトがコールされ、アナウンスが9回の表の開始を告げれば、スタンドから自然と「ノゴロー」コールが沸き起こった。
監督の檄のもと、チームメイト達が守備位置へと走って行く。
そうだ、あと一歩……あと一歩なんだ!
「けーちゃん」
「何?」
マウンドに向かう前の吾郎から不意に呼ばれて、俺は、ベンチに腰掛けたままで振り向いた。
刹那、吾郎の唇が俺の唇に触れてきた。
「……!」
いくら公然の仲とはいえ、いきなり何してくれるんだ!!
真っ赤な顔で、怒鳴りつけてやろうかと思ったが、唇が離れた寸前に見えた吾郎の表情に、俺の声は完全に奪われてしまった。
あんな、ぞくりとするほどの真剣な表情、見るのはいつくらい振りだろう。
「行ってくる」
ヒーローになってくる。
俺にはそう聞こえた。
立ち上がり、頷いて、ただ呆然とするしかない俺を置いて、吾郎は帽子を深く被り直し、真っ直ぐに、9回表のマウンドへ向かった。
9回の表。
迎えた1人目の打者は、ツーボールからの3球目で、ライトフライに打ち取った。
2人目は、初球を打ち損なってのサードゴロ。これをチームメイトが難なく捌いて2アウト。
ノーヒットノーランまで、あと1人……!
けれど、ここで打席に立ったのは、2番打者ながら3割の打率をキープする左の強打者。
ベンチからも、キャッチャーからも、ここは慎重に変化球を交えて揺さぶれとの指示が飛んでいた。
が、吾郎はそれに頷かなかった。
大きく振りかぶった左腕から放たれたのは、150km/hオーバーのストレート!
ボールがミットに吸い込まれた瞬間、スタジアムに、歓声が巻き起こる。
この瞬間、俺は───いや、きっとチームメイト達も、そして相手打者も気付いたろう。
『あんなすごいフォーク持ってるのに、パワーヒッターに対して、剛速球一本で勝負挑むことあったろ……あれ、大好きでさ……』
───格好いいよ、本当に。
そんな、いつだかの言葉を、俺は思い出していた。
吾郎はきっと、この勝負、ストレートだけで挑むつもりだ。
胸の鼓動が、痛いほどに速くなる。
ただ見ているだけの俺でさえこうなのだから、マウンド場の吾郎は、一体どんな心境なのだろう。
そんなものを推し量る暇もなく、放たれた2球目は、ストライクゾーンを僅かに外れた。
続く3球目もボール、4球目はインコースで空振りをとり、これでツーツーまで追い込んだ。
スタジアムのどよめきが更に増す。
けれどここから、相手が粘りを見せてきた。
5球目、6球目、続けてのファウル。7球目は高めに外れ、ついにフルカウント。
フォアボールなら、まだノー・ノーは継続とはいえ、そうなればおそらく集中力はぶつりと切れる。
頼む、次で決めてくれ……!
俺は祈るような気持ちで、吾郎の8球目を見つめた。
「……!!」
一瞬、ベンチの全員が立ち上がった。
甘く入ったところを捉えられ、白球が高く打ち上がる。
誰もが息を呑み、その球の行方を目で追った。
上がった球がファウルゾーンに落ちた瞬間、俺は安堵から、膝から崩れ落ちそうになった。
けれど、目を逸らしている暇などない。
俺は真っ直ぐ、マウンド場の吾郎を見……
「……!」
ほんの一瞬、吾郎と視線が合った気がした。
その顔は、この緊張感の中にあって、笑っているような気さえした。
ピッチャーズプレートを離れた右脚が、大きく前に踏み出される。
しなる左腕、肩、肘、手首。
ほんの1秒ほどの動作が、まるで数十秒のように思えた。
すべてがスローモーションのように、俺の目前を流れてゆく。
俺は、そのすべてをこの目に焼き付けようとした。
吾郎の指を離れた球は、真っ直ぐキャッチャーミットへ飛んだ。
それを阻もうとするかのように、バットが振られる。
真っ直ぐに飛んだボールは、バットに当たった。
けれどボールは、バットを折った。
そしてひょろひょろと力無く舞い上がり……吾郎のグラブにおさまった。
ゲームセット!!
スタジアムは大歓声と悲鳴に包まれた。
俺はスコアを付けることも忘れ、震えていた。
テレビ越しではなく、生で。
吾郎の左腕が、偉業を成し遂げる瞬間を見た。
胸が、目が……全身が熱くて、もうどうすればいいか分からなかった。
野手達が、一斉に吾郎の元へ駆け寄って行く。
けれど吾郎は、ひょいひょいとそれをかわし、ベンチに向かって走ってきた。
「けーちゃんっ!!」
「吾ろ───」
やっと出そうになった言葉を言い切る前に、またも塞がれた唇。
痛いほどの抱擁。
頭が一瞬真っ白になって……無数のフラッシュが焚かれているのに気付いたのは、5秒ほどの間を置いてからのこと。
もう今更なのは分かってる。分かってるけれど!
明日のスポーツ紙の一面を見るのが、とても怖くて堪らない。
いや、ものすごく、楽しみでもあるのだけれど!
結局俺は、吾郎に抱きしめられたままで、一緒にチームメイトにもみくちゃにされた。
俺にもかけられた「Congratulation!!!」が、なんだかとてもこそばゆい。
ありがとう、吾郎。
俺に夢を見せてくれて。
いや、これは夢なんかじゃない。
まぎれもない現実。
「ねェ、けーちゃん」
「……なに?」
吾郎が耳元で囁いてくる。
「あのさ、今夜……」
「!!?!」
この瞬間、全米ナンバーワン左腕を殴り飛ばさなかった俺は、本当によく耐えたと思う。
幸い、大騒ぎなチームメイト達は、誰も気付いていなかったみたいだが……まったく、アンタって人は本当に……!!!
───キャビアの缶、フォアグラの真空パックに黒トリュフの瓶。
中身はすべて、レタスやトマトと一緒に俺の上に飾られている。
吾郎は何故、こういう時、天災的な芸術センスを発揮するのか……。
「で、最後に……コレ!」
トンッと、俺の胸板の中心に置かれたのは、試合の最後に吾郎が掴んだウイニングボール。
「動いたら落ちちゃうから、じっとしててねー」
くそっ……そんな物乗せられたら、落とすわけいかないだろ!
こっち向いてーとスマホのカメラを向けられても、ウイニングボールがあるから睨み付けるわけにもいかない。
「ちゃーんとデザートも用意してあっから、楽しみにしててね〜♪」
「………」
あぁ、そういえば冷蔵庫に、青やら黄やらピンクやらのクリームに彩られたケーキが入ってたっけな。
うん、分かる。
どうなるのかって事くらい、分かるよ。
けど……いいよ。
今夜は、偉大なサウスポーの……最愛のダーリンの我儘、全部聞くって決めたんだ。
好きなだけ、朝までだって付き合ってやるよ。
ウイニングボールは、あの日、高原の別荘でキャッチボールをした時の、初めて受けた左腕のボールと一緒に、大切に棚に飾ってある。
どちらも、俺の大切な宝物。
ありがとう、ダーリン……愛してる。
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